une vie

康雄 アーティスト

京都市に生まれる。父親は、当時外車を所有し運転するハイカラな人物であった。幼少の時から絵が好きでデッサン等に秀でていたが、当時時代の最先端であった機械工業に日本の未来を夢みて1944年(昭和19年)神戸工業専門学校(現・神戸大学工学部)機械学科に入学する。第二次世界大戦中は、川崎車両(現川崎重工業車両カンパニー)に学徒動員され鋳造を學ぶ。戦後を明石の川崎航空動員中に迎えた。神戸工業専門学校1947年(昭和22年)を卒業後、戦争なき世界、芸術の未知を新たに志し、東京芸術大学彫刻学科に入学する。彫刻への動因のひとつには、工業専門学校の卒論で「美術鋳造  大仏の鋳造  」を主題にしたことだと語っている。1953年(昭和28年)東京芸術大学彫刻学科を卒業。同時にフランス政府給費生としてパリに留学[1]以後83歳に至るまでの生涯にわたりフランスで生きることになる。1953年(昭和28年)– 1958年(昭和33年)、パリ国立美術学校(エコール・デ・ボザール)に學ぶ[1]。 1954 (昭和29年)-1958 (昭和33年)彫刻家アペル・レ・フェノザの助手を務める。学校に行きながらアトリエに通っていた水井は、後日こう語っている。「彼は私に毎日一点、粘土で小品を作って待つ事を義務づけた。数ヶ月後に私は自分の創作力の空白に絶望を覚えた。しかし、何時もギリギリにその一点が生まれた。 この後、私の人生がシンポジユムや1%アートの大作連続に変ったとき小品作の経験が創作の原動力になった事を感謝している。」と。

IAN COOK © https://www.iancookphotography.com

「私は調和統一を目指す。 石の彫刻が、私の行為となるように。 私の行為が、石の彫刻となるように。」
康雄

「日本の那智の滝の落ちる水は、岩にしみこみ石を穿ち、きっとフランスのどこかで噴出するでしょう。」水井康雄

日本とフランスの間で

彼の日本独自の精神性で育んだ感性を持って、フランスの地において有機的な形を追求し、石と対話していく。

彼はフランスに定住し、いくつかの国からの注文でフランス各地に大きな作品を残す。

それは、モニュメント的なもので、そのほとんどが現存している。

日本においても、東京、大垣、大阪、箱根、岐阜などに。

世界においては、オーストリア、ベルリン(ドイツ)、ネゲブ(イスラエル)、ユーゴスラビア、ルズバッキー(チェコスロバキア)、パームビーチ(フロリダ)でも

ジャンローゼンベルグ 

フランスポワチエ大学、生物学名誉教授から、水井への言葉

「彼の非具象の作品の中に時代の観念はない。象徴や具象を通して計算されたイメージもない。彼の作品は宇宙的である。そこからは生の起源や進化が感じられる。それは個別化したものでなく宇宙的存在の本質を表明する。それは生の進化の始めに起こることそのものである。」

1985年(昭和60年) フランス政府より、芸術文化勲章コマンドゥールを授与される。

履歴

1925年(大正14年)5月30日 京都市に生まれる。

1944年(昭和19年)京都市立第一工業学校機械科卒業。

1947年(昭和22年)神戸工業専門学校 機械科卒業。 戦時中、軍機の機械整備に携わった後、戦

後人生の指針をかえ、芸術を目指す。

1953年(昭和28年)東京芸術大学 彫刻科卒業。平櫛田中、菊池一雄教授に師事。卒業と同時にフ ランス政府給生費としてパリに留学。パリ国立美術大学に学ぶ(~1958年)。

1954年(昭和22年)フランス、パリにて彫刻家A・フェノザ(fr)の助手を務める。(~1958年)

1959年(昭和26年)フランス、パリ青年ビエンナーレ(フランス語版)参加。 《鳥の墓》制作。A シュス個人賞受賞。 フランス、ラコストにて現存。

1960年(昭和35年)オーストリア、第二回サン・マルガレーテン国際彫刻シンポジウム参加。《天国への鍵》 制作。 現存。

1961年(昭和36年)ドイツ、キルヒハイム国際彫刻シンポジウム(ドイツ語版)参加。 《道しる べIII》 制作。現存。

1961年(昭和36年)スロベニア、ポルトローチにて、第一回ユーゴスラビア国際彫刻シンポジウ ム(ドイツ語版)参加。 《道しるべII》 制作。現存。

1962年(昭和37年)ドイツ ヨーロッパ彫刻家シンポジウム1961-1963にて、《愛の鍵》 制作。ドイツ批評家賞受賞。現存。

1962年(昭和37年)イスラエル、ネゲブにてイスラエル国際彫刻シンポジウム参加。 《ネゲブの 大自然に捧ぐ》 制作。現存。

1963年(昭和38年)日本、神奈川の真鶴にて、世界近代彫刻シンポジウム参加。 《道無》 制 作。大阪、富田林PL教団にて現存。

1964年(昭和39年)日本、東京の国立代々木競技場、第二体育館に 《余韻の化石》 制作。現存。

1966年(昭和41年)スロバキア、リューズバキー国際彫刻シンポジウム(ドイツ語版)参加。 《タトラ山獄に捧ぐ》 制作。現存。

1967年(昭和42年)フランス、グルノーブルのオリンピックグルノーブル選手村に 《マイクロコ ズモとマクロコズモ》 制作。現存。1%アートによる彫刻制作を手がけ始める。

1968年(昭和43年)フランス、ボルドー大学法学部に 《泉の化石》 制作。現存。

1968年(昭和43年)アメリカ、バーモント国際彫刻シンポジウムで 《三つの軌跡》 制作。現存

1969年(昭和44年)ドイツ、オゲルスハウゼン(ドイツ語版)国際彫刻シンポジウム参加。(ド イツ美術アカデミー給費を得て、ベルリンで制作した《光の瀧》をフェーダー湖畔に移動。)現存。

1985年(昭和60年)兵庫、神戸にて第13回神戸ユニバーシアード噴水彫刻 《デート6》 を制作。現存。

2007年(平成19年)フランス、マルセイユ総領事館でのエクスポジション

2008年(平成20年) 膵臓癌のためフランス、アプトの病院にて死去。83歳。

没後

2011年(平成23年)日本、京都の堀川御池ギャラリー(京都市立京都堀川音楽高等学校内)にて水井康雄回顧展。

2013年(平成25年)フランス、オート=ソーヌ県Haute-Saôneの、リュクスィユ・レ・バン

Luxeuil-les-Bainsにおいて回顧展。

2014年(平成26年)フランス、ラコスト Lacosteにて回顧展。

2015年(平成27年)フランス、生誕90周年を記念してノール=パ・ド・カレー地域圏 Nord-Pas-de-Calais、ヴィルヌーヴ・ダスク Villeneuve-d’Ascq 3カ所での大回顧展。

2015年-2017年(平成27年-29年)フランス、パリにてフラッグ・フランス・ルネッサンス Flag-France Renaissanceの敷地において、《雲の番人》展示。

2018年 4月4日-28日 (平成30年)フランス、ワッテルロー(Wattrelos)にてメタグラフィを中 心にした個展。

2018年 11月 - 2021年 10月 第42回 東京丸の内ストリートギャラリー 永楽ビルにて、 公

益財団法人彫刻の森芸術文化財団所有の石のとびらを展示。受賞

1959年(昭和34年) 第1回パリ青年ビエンナーレにて、彫刻の部 アンドレ シュス (ANDRÉ SUSSE)個人賞受賞。

1962年(昭和37年) ベルリン国際彫刻シンポジウムに、ドイツ批評家賞受賞。

1964年(昭和39年) 第7回高村光太郎賞受賞。

1981年(昭和56年) 第2回ヘンリー・ムーア大賞展優秀賞受賞 《オシロコンプレックスII》 (箱根 彫刻の森美術館)。

1985年(昭和60年) フランス政府より、芸術文化勲章コマンドゥールを授与される。